昭和46年3月13日 十三日会



 大分の角の井というお酒屋さんの、ご主人にお会いしましたんですけれど、(          も)の60いくつに、いよいよ高名という方なんですけれどもね。まあ私の話を頂きたいと言うて、見えられたんですけれども。まあまず、ご自分の、ことをお話して、弓道範士。膿を引かれるんですね。ここの言うなら大分県の会長をなさっておられます。連盟会長ですね。その方の話しを聞かせて頂いたんです。まあ井上さん言われるのに、何の道でも同じだと言う意味のことを言われましてね。
 確かにあのそうです。必ず心が伴うと言う事。もう60幾つになられるけども、一日でも、その毎朝弓を握られない事はない。必ずそのなさるそうですがね。いろんなね、もう絶えず私どもに反省を求めますと言う事。それがやはり、聞こえない声が聞こえてくるところまで、あの精進しておられるところやら、まあたいしたもんだと思いますね。結局自分の心がね、ちょっと乱れておっただけでも、もう成果に現れてくる。
 結果に。的というものは、絶対に動かないものですから、結局は動くのはこちらだと言うわけなんですね。さすがお話しを聞かせて頂いて、ほんとに何の道でも同じですねと言うて、まあ共鳴してお話しをうけたまわったんですけれども。信心もやはりそうであります。けれども、ただ信心が違うのはね、その私共もそのくらいな気持ちで精進をさして頂きますとね。この方はある、もうそれこそ、お金に不自由なさるわけでもなし、とにかくお酒でも年中醸造ですから、4千石から作られるというわけです。
 それでもう(   ごとに)ある事、毎月百万ずつくらいお金を浪費されるんです、お子さんがおられましてね。まあそれをなんとかおかげ頂きたい、出来れば先生の手元において頂いて、その修行をさせたいと言うようなお願いでございました。私が思いますのに、今朝からも頂いておるようにね、私共がこの安心の生活をしたいと願わんものはありましょう。まあそういう道があるならおかげを頂きたいと思うんですが。その安心と言うことはね、私は神様が安心して下さる氏子になることだと思います。
 神様が安心して下さる、もうあの氏子はと安心して下さる人間氏子にならせて頂く時に、私は、神様が安心して下さる。またその安心は、私どもの安心としておかげ頂かれる事だと。と言うて人間の事ですから、どこにお粗末御無礼があるやら分からず、けれども姿勢だけはですね、そこにしっかり、今朝の御理解を頂きなさった方は、今日の御理解の中に申しておりますように、本気でその事を持って、いわゆる信心の稽古をさして頂くということ。例えば弓の道でも同じ事。
 もう毎日毎日、これはもう握らなければおられんのである。同時にただ正確に的に当たると言う事ではなくて、言うなら絶えず自分に反省を求めてくると。そこんとこに自分を正していかにゃんと。だからそういう例えば修養の道、これは何の道でも同じですけれども、まあ自分を乱さずにすむ日々の精進をすると言う事。けれどもそれはね、それだけのこと。信心の道で、例えばあなたが、あの弓の道を教導されておいでられるように信心の稽古をなさっておいでられると。
 言うならば今の、息子さんの言うならそれは一つの病気なのですから、病気も治るでしょう。又は様々ないわゆる、おかげに繋がっていくだろうと。言うてお話しした事です。ですから、私共の信心の姿勢というものが、例えばその信心はね、絶えず私共に反省を求める。神様はいつも、私共に反省を求めて下さる。だからいっときの油断も隙も出来ない。というところに、楽しみを持っておられるというわけですよね。弓をなさる方その範士にでもまたなられる方ですからそう言われる。
 もうそれが、楽しい事である。言うなら、自分の心直しの為に弓を引いておられると言うてもよい。けれども自分が、なら心を直しであり、改まっていく生活に入られても、こりゃ他のおかげには全然繋がらない。ところが信心の道はそうではない。と言うてまあお話しをしたところです。例えて申しますと、私共は小学校の時代から、まあ言わば親孝行せんならんというお話しを聞きます。だから親孝行せんならんと思うて親孝行しますと親は喜んでくれる。
 また、親の喜ぶ姿を見て自分もうれしい。ここまでなんです。他の道は。ここまでしかいただけんのです。自分の心を乱さんようにと言うて、精進努力すると言うてもそこまでしかできんのです。ところが信心の道はそうじゃない。私が言う例えば、親孝行せにゃいけませんよと言うから親孝行なさる。なるほど親も喜べる自分も喜べる。その賀びにはね、自分の願いもしなかった、思いもかけないおかげがとものうてくる。金銭のご都合でも、出来ない人は金銭のお繰り合わせを頂く。
 病気の人は病気が治っていくと言う様にです、そこが信心とただ修養の道との違いだという事を話した事でございますけどもね。そういうお互い道を、志す者はです、絶えずそれは、弓は私に日々反省を求めてくる。それが楽しい、それがやめられないのだと言われるように、信心もね、日々神様が私共に反省を求めて来て下さる事を分らして貰う。それを感じる。そこで信心は、一生が修行じゃと教祖が仰るゆえんがそこにある。そこに喜びがある、楽しみがあるというそこまでの信心を頂いたときです。
 私は神様が安心して下さるんだと思うです。そうでしょう。お願いをするとおかげを頂く。ああもう、こりゃもうほんとにおかげを頂く。ああ有難い有難いと、参っておる間は神様は安心しなさらん。おかげに左右される。例えば当たるとか当たらないじゃない。百発百中、例えば当たる様になる事も楽しい事でしょうけれども、弓そのものが、私にいつも反省を求めてくると言う事がです、心に感じられる様になると言う所に、弓の例えば稽古をなさる、例えば井上さんはも、一生これを止める事は出来ない。
 手足の動く限り、弓を握られるだろうと自分で言っておられる。だから信心もそこまでいった時です、神様がいや、あの氏子はもう大丈夫だと言う事になるのではないでしょうか。おかげを頂くから参りよるとですよ。というのではなくて、いわゆる信心の稽古に参っておるのだと。稽古が身に付くそれが楽しいのだ。それが有り難いのだ。しかもその信心いわゆる、神様は絶えず私どもに反省を求められると言う事が分かる。
 今も御祈念前に、伊万里の竹内先生がお届けになりますように、先日からお導きをして参っておられる方が、先生のところ尋ねられてからこう言われる。先生、信心をさして頂くようになりましたら、もうちょっとしたことでも気になって気になって、信心のない時には平気で過ごしておった事が、気になって、信心してかえって心を使わなければならんと言うていわっしゃると。
 そりゃそうですよね。信心、いわゆる心にいつも、金光様を唱えさして頂くと言う事なんですから。それこそ自然は絶えず、神様は絶えず私どもに反省を求めたもう。そういう事がです、例えば、鴨居で頭を打っても、ちょっと蹴躓いても、あら神様は私に何を求めておられるであろうかと思うと言うわけなんです。ちょっと夢を見せて頂いても、神様は御夢の中にでもお知らせ下さると言うが、何を私に教えようとしておられるだろうかと思うてそれが気にかかる。だからこそ信心は有り難いのだと。
 その方に言うて下さいと言うて話したことでした。剣道をなさる方、柔道をする、もう達人とも、名人とも言われるようになるとね、例えば、柔道の名人達人と言われるようになったらです、絶対に道を歩くのに寒いからと言うてふところでにも手を入れて歩くと言う事は絶対しないそうなんです。ね。ふところ、寒いからこの様にしていると後ろから羽交締めに絞められたらもうそれでおしまいだ。
 だからどんなに冷たかってもやっぱり手を出す。だから柔道しよるから、手をいつも出して歩かんならんから、柔道辞めたといやあそれまでなんです。剣道でもそう。剣道の道をだんだん心得たら、道を歩かせて頂くでも、いつどこから襲撃されるか分からないから、いつも心にかけておる。もう心をかけておらなければならないことが、難儀だと言うならこれはしかたない。信心さして頂く者がいつも神様を心にかけておるから。
 ちょっとした事でも、ああ神様は私に何を示しておられるのだろうかと心に響いてくるのを感じる。そこにいわゆる、先程お話したように、神様はいつも私どもに反省を促される。それが、今まで気が付かなかったんです。信心がない時には、信心が薄い時にはね。今日でも剣道の達人と言うと例え道を歩いておっても決して近回りをしない。近回りをしよると向こうの方から出会い頭に打ち込まれたらもうおしまいだ。だから道の外側の方からこう回るわけです。向こうから誰が来てるのかすぐ分かる。
 だから剣道してれば近回りも出来んから、もう剣道は嫌だと言うたらもうおしまい。信心もそう。信心をさして頂いたら時間も掛かる。暇も掛かる。お金もいる。しかも信心をさしてもらい、いつも神様を心にかけとかにゃんから、もうちょいとしたことでも油断は出来ん。だから信心は、信心のなかった時の方がよかったと。いやあそれまでの話なんですね。ですから、私ども日々信心の稽古をさして頂くと言う事はです。
 段々おかげを頂くから有り難いのでもありますけれども、神様が絶えず私どもに反省を求めたもう。それが分かるところまで信心を進めてまいりましたらです、もう信心は外されない。一生が修行じゃという意味がよう分かる。そこまで信心を私どもが頂いた時です、初めて、もうこの氏子は大丈夫だと神様が安心をして下さる。その安心が私どもに返ってくる、それを私どもが安心の生活と言う。人間の幸福というのは、私は日々がです、安心の生活、盲蛇に怖じずで何にも分からない者がですね。
 平穏無事だからと言うて平気で世の中を渡っておるというほど危険な事はありません。神様もご覧になってハラハラなさることであろう。けれども、私どもに絶えず神様がそれぞれに反省を求めておられる、それが日々、神の声として聞こえて、神の姿だと見えてくる。ね。だから、修行が辞められないという、私信心の姿勢が出来た時、初めて神様が安心して下さる。そこまでは、お互い信心を進めたいと思う。神の願いが成就する日として、この十三日が大事にされる。
 だから神の願いが成就すると言う事は、私どもがね、そういうところまで、私どもの信心が進められると言う事がです、取りも直さず神様の願いなのです。氏子信心しておかげを受けてくれよと言う、そのおかげを受ける姿勢、基本と言うものがそこに出来る。それが神の願いなのだ。そういうところに焦点をおいて信心の共励をさして頂くわけですね。そこまでいかなければいけませんと思うですね。
 もう一生、これを握ったが最後離されないと。また、あの氏子はもう離さないと神様が見通しがついたとき、おかげも神様が安心して下さる事が出来る。ね。様々な私どもの願い、いや願い以上のものが成就してくる。夢にも思わなかったようなおかげが受けられる。私どもが安心の御陰を頂くからなのです。それにはまず、神様から安心して頂けれる私どもに、お引き立て、お取り立てを頂かなければ出来んと言う事になるですよね。
   どうぞ。